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六本木ミッドタウン傍です。
ジョン・スチュアート・ミル
数学と物理以外の領域で、およそ知識の名に値するものは、人が反対論者と論争をするときに働かせるのと同じような思考のプロセスを経ていなければならない。それは人から強制されたものでもよいし、自分で見つけたものでもよい。
簡単にわかるようなものでない問題については、一般に流布している意見がしばしば正しいけれども、それが真理の全体であることはめったに、というか、絶対にない。あくまでも真理の一部分にすぎない。
真理を見よと迫って、われわれの目を開かせようとする人は、逆に、われわれに見えている真理が見えていなかったりする。人間のことを冷静に判断する人なら、そんなことについても、憤慨すべきものとは思わないだろう。
深刻な論争が、あの問題でもこの問題でも、つぎつぎに終結していくのは、意見がひとつにまとまっていく流れの必然的な現象なのだ。
どんなに正しい意見でも、十分に、たびたび、そして大胆に議論されることがないならば、人はそれを生きた真理としてではなく、死んだドグマ[教条]として抱いているにすぎない。
意見の違いがありうる問題の場合、真理は、対立し衝突し合う二つの意見をあれこれ考え合わせることによってもたらされる。自然科学の分野でさえ、同一の事実について、つねにまた違った説明を加えることが可能なのである。
ジョン・スチュアート・ミル
数学と物理以外の領域で、およそ知識の名に値するものは、人が反対論者と論争をするときに働かせるのと同じような思考のプロセスを経ていなければならない。それは人から強制されたものでもよいし、自分で見つけたものでもよい。
簡単にわかるようなものでない問題については、一般に流布している意見がしばしば正しいけれども、それが真理の全体であることはめったに、というか、絶対にない。あくまでも真理の一部分にすぎない。
真理を見よと迫って、われわれの目を開かせようとする人は、逆に、われわれに見えている真理が見えていなかったりする。人間のことを冷静に判断する人なら、そんなことについても、憤慨すべきものとは思わないだろう。
深刻な論争が、あの問題でもこの問題でも、つぎつぎに終結していくのは、意見がひとつにまとまっていく流れの必然的な現象なのだ。
どんなに正しい意見でも、十分に、たびたび、そして大胆に議論されることがないならば、人はそれを生きた真理としてではなく、死んだドグマ[教条]として抱いているにすぎない。
意見の違いがありうる問題の場合、真理は、対立し衝突し合う二つの意見をあれこれ考え合わせることによってもたらされる。自然科学の分野でさえ、同一の事実について、つねにまた違った説明を加えることが可能なのである。